実は 「わかる」 ということはとーーーーっても難しい。

大体がわかったような気になっているだけのことなのである。

このことがわかったのは(まぎらわしいですね)本当に最近のことである。

「わかる」 という言葉の意味は大体において、その言葉で指し示されることが理解できた。という意味であろう。

ところが、この先があるのだ。
指し示す意味を 納得 して心にしまい込むことだ。
この理を知ったのは、旅行代理店の前を通りかかったときだ。
水着の女性の看板が立っていて、それにふと目をやったときに文字通り 「わかった」 のである。
それを見たときに自分が感じたことというのは、

「今はこういう美しい人も、やがて年老いたりするのだ」

余りにも余りにも、馬鹿馬鹿しいほど当たり前のことなのだが、天動説が立証されたときと同じぐらいの自分としては衝撃だったのである(っていってもその時生きてはいませんでしたけどね)。

釈迦は悟りをひらいて誰も自分の話を聞いてくれないので、最初は鹿に向かって説教したそうな。

「鹿よ、死ぬことを恐れる必要はない。何故なら人間もまた死ぬからだ」

人間から日々殺されていた鹿の群れに向かってこう述べた。人が死のうが自分が死ぬということと何ら関係はないではないか!そんなもんがいったい何の気休めになるのじゃあ!
と素朴にそう思ったものだが、その水着の看板を見てこれがわかったのである。
全ての生き物というのは、永遠の時間の中のどこかに生まれて、とある時間を与えられそうして消えてゆく定めにある。その意味において等しく平等なのだ。自分だけではないではないか。確かに、死んでゆくときは、この世の中からただ一人切断されて、自分だけの時間がそこで断絶する。
しかし、それは自分だけのことではなく、誰もが、また今こうしている間にも誰かがこの世界から切断されていっているのだ。であれば、この孤独は全ての与えられたもので、全てがそうであるならば孤独ではないではないか?
ということが一瞬のうちに思考の中に駆け抜けたのである。
実は自分は子供の頃から「年老いる」「死ぬ」ということが怖くて仕方がなかったのであるが、この時、その恐怖からふっと開放されたのであった。

と、書いたとしても多分ほとんどの人には残念ながらわかってもらえないのだろうと思うのだが、実際には真理というか真実というか価値ある言葉はすぐそこにあるのだと確信した。言葉として理解しているだけで、 「わかって」 ないのだと思う。

最近になって、昔上司から言われた言葉がようやく 「わかる」 ようになったと感じる。

実際に自分が部下だったときは、

「何言ってんだよーーー。このわからずやの偏屈おやじ」

ぐらいに思っていたが、その言葉の意味が今はよーーーく 「わかる」 ようになった。
心から受け止める習慣をあの時につけておけば、今はもっと違う自分があったかもなあ。と考えると残念ではある。今は、なるべく人の言葉を心で受け止めるようにしている。これをそうすると、素の自分のままでいられるし、人からも嫌われないし、いいことづくめである。

そうそう、心で受け止めるためには、自分で自分を守ってはいけない。他人の言葉を否定してはいけない。
受け止めるため心の殻を外さなくてはいけない。
普段自分が、自分の真の姿だと考えている自分は、本当の自分じゃ多分ない。
それは、自分が、自分はこんな人間だと考えている自分の姿である。そんなものにこだわる必要はない。
ありのまま、人の言葉を受け止めて 「わかる」 ように心がけると本当の自分が見えてくる。そうすると、自分自身のことも 「わかる」 ようになるのだ。

なんか、バカの壁みたいな話になったが、あれを読んで 「わかった」 人は少ないんじゃないかなあ。