太宰治の処女作品集である「晩年」の冒頭の「葉」という小説の余りにも有名な書き出しがこうだ。

撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり

ヴェルレエヌ

ちなみに太宰治は死後50年が経過したため、インターネットなどでも作品を公開できるようになっていて、青空文庫やkindleでただで読める。

これをはじめて読んだときは中学生だった。
中学の時は太宰治が好きな友人がいて、人間失格の中の竹一と葉蔵ごっこをしたものである。

そうして、高校生になってもこの言葉は心から離れなくて、そうしてますます強く意識するのであった。

「撰ばれてある。」

まさに太宰治はそのような存在である。
他の人と自分は違うという確信を持っていたが、それは不安でもあって、一般人を常に恐れた。

一般人の強さに比べて、知識人はひ弱だ。

ここで言う不安というのはそういう意味ではもちろんないのだが、太宰治の文学の通底を流れる不安はその存在の不安定さ、弱さに他ならない。
一般人に対して、「バカヤロウ」っていえるように知識人は強くならないといけないと語っている。自分も高校の頃、20歳そこそこの頃はこれに大いに、

「ああ、そうだなあ、」

と大いに思ったものなのだが、大人になってみると自分というものは一般人に他ならなくて、逆に「バカヤロウ」っていわれなくてはならない側の人間になっているのである。

自分は太宰治のように「撰ばれて」はいなかった。
自分は太宰治のように「弱く」はなかった。

太宰治は撰ばれた、いうなれば神からの祝福を受けた人間である。
明晰な頭脳をもって英語をよく操り、美しく心打つ文章を綴り、そして類まれなる美貌でもって女性の心を虜にしていたことも知られている。

私はかつて天下茶屋という太宰治が逗留して、富嶽百景を執筆した店でアルバイトをしていたことがある。
この建物の二階に太宰治を記念した一室があり、様々な写真が展示されていた。そこに飾られていた太宰治の青年時代の写真はこれはもう類まれなる美青年としか言いようのないものであった。誰かに似てる?ああ、田原俊彦だなこれ。と思ったのである。田原俊彦はアイドルになる前はとてももてて、下駄箱の中はいつもラブレターで溢れかえっていたとかいないとか・・・。

自分が太宰治と同じ?そんなわけないわ。

見た目はまあ並みと思うが、女性に縁もなかったし、おつむの出来もまあ並みだし、文章を綴るのは好きだったが高橋和己を読み衝撃を受け筆は折ってしまったし。何もかも太宰治に及ばないのである。

それに気が付いてしまったら自分の心の中に、太宰治という人間の占める座がなくなってしまったのである。