いや、待て、包丁は背中の後ろに隠し持った。

「部長、脚食べたら、この二人逃がしてやるわけにいかないですかね。」
「うーん、逃がしたい?」
「やっぱりカニとはいえかわいそうな気がしますよ。」
「そうか?まず、あの若造だけど、知ってるか?カニの分際で数人と数匹から貢がせていたんだってよ。悪い奴だよな。人間のクズ、っていうか人間じゃないし。」
「それと良子だが、ご覧の通り3人の男と同時に付き合ってたわけだよ。同情の余地はないね。脚だけってわけにはいかないさ。やっぱりカニは味噌だからな。味噌を食べないと。今日はいい酒を持ってきてるんだよ。「純米大吟醸 田酒」を持ってきたよ。なかなか手に入らないんだけどね。せっかくだから、君も一杯やらんか。」
「すいませんいただきます。」

酒に口をつけたら、なんだかどうでもいい気分になってきつつあった。

「まあ、君はそこでとりあえず、若造の脚でも食べながら見ていたまえ。」

部長が良子に襲い掛かる。
でもその様を見ていたら、余りの醜悪さに怒りが沸いてきた。
隠し持った包丁で部長に切りつける。と言っても殺すつもりはなかった。良子を逃がすことができればそれでよかった。

部長は私が切りつけた瞬間、まるで後ろに目があるかのように振り返った。
驚いた私は手元が狂い包丁の切っ先が外れ、肩口をほんのわずかに切っただけだった。

「いってーーーーー。いたい。いたいよう。いていてててててて、いてえ。ああ、血が出てるよ。あああ、血だ、血だ、死ぬ死ぬ。」

部長は大騒ぎし出した。こんな人だったのか?

「おい、お前なんてことをするんだよ。お前なあ、お前って奴は、何て奴だ。この恩知らず。お前が横領しているのは知ってたぞ。それを俺は黙ってたんだ。なのにどうしてこんな仕打ちなんだよ。」

部長は、そろそろこの小説がおしまいになるということもあって、思いっきりねたをばらしながらわめき散らす。

「おい、救急車呼べよ。横領のことは黙っていてやるからさ。それともお前は俺を殺す気か。」

私はその言葉には答えず、彼女の縛めを包丁で切り裂く。ものはついでだ、男の縛めも切ってやる。

「逃げるぞ」

良子は自分のハンドバックを取り、部長のセカンドバッグを奪って中に入れた。カニとは思えない手際の良さだった。

「いいかぁ、覚えていろよ。どこに逃げたって、必ず見つけ出して、必ず食ってやるからな!ちきしょー、いてーぞーー、救急車呼べよぉーーー。」

完全にその言葉を無視する。

「部長!いいですか。近づいたら刺しますからね。」

ちょうどタクシーがいい具合にやってきた。

「部長は追ってこないかなあ」
「大丈夫よ。部長の車の鍵は、このバックの中にあるわ。」

この冷静な判断に思わず驚く。
でももう、引き返すことはできない。

「私、私が生まれたオホーツクの海が見たいの。大丈夫、旅費なら充分にあるわ。」

部長の財布の中には30万円ほどあった。

中標津空港というひなびた空港を降り立った時、周辺は見渡す限り緑色だった。
これが、北海道かと実感した瞬間に携帯が鳴った。

「部長からだ!」

「もしもし」
「俺だ、よくもあんなことをしてくれたな。どこに逃げても無駄だぞ。社にはお前の横領を報告した。全社挙げて指名手配だ!3万人の社員からは逃げられないぞ。」

ひょっとして、部長からはこっちが見えているのだろうか。などと不安に慄く。
とりあえず連絡バスに乗り、根室に向かう。

「私、眼が覚めたわ。あんなくだらない男にだまされていたなんて、自分では利口なつもりでいたけど、馬鹿だったわ。」
「何をいきなり言い出すんだよ。」
「男を手玉に取ってたって思ってたけど、実は手玉に取られていたのは私。でも、課長だけは私を助けてくれたわ。お願いだから最後に一緒に海を見て欲しいの。そのあと、私は海に還るわ。ただのタラバガニとして生を終えることにするの。」
「おい、どういう意味だよ。」
「そのままの意味よ。もう、何もかも嫌になっちゃった。本当にごめんなさい。課長の人生をめちゃくちゃにしてしまって。言い訳になるけど実は横領をさせてたのは、課長も分かってたかもしれないけど部長なのよ。あなたに横領させて、それを部長がほとんど吸い上げていたの。」
「何で、そんな約束をしてしまったんだよ。」
「仕方がないわ、だってカニだもん。」

「過ぎてしまったことは仕方がないさ。海になんて還るなんて言わないでとりあえず二人で生きてみないか?」
「うん。こんな私でいいの?こんな汚れた悪い女なのにいいの?」
「いいんだ。」

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