彼女はようやくひっくり返って、ゆるゆると立ち上がった。

私は気力を振り絞って救急車を呼ぶ。

電話を切ったあとで自分の足元にある血溜まりを見たらふいに意識が遠のいた。
こんなところで倒れるわけにはいかない。壁によりかかる。
しかしだらしなくフローリングの床に足を取られて、ずるりとひっくり返ってそのままになってしまったのである。

痛いということは分かるのだが、誰の体が痛いのやら、ここで寝ているけが人は誰なのやらなどとそんなことを疑問に思っ たりした。

「お名前は、何ておっしゃいますかーーー?」

医師が私に尋ねる。
ああ、そんなこと訊かれても今の自分には無理である。そうして、私の意識は完全に途絶した。

気がついたら翌日。
私は全身をミイラ男のように包帯でぐるぐる巻きにされてベッドに横たわっていた。周りには点滴の管やら、なにやらもの ものしい医療器械がたくさん並んでいた。機械は自分のコンディションをなにやら画面に映している。

激しく全身が痛いことに気がついた。
気がついたらもう、居ても立ってもいられない(まあ、立ってはいないが)。

「ゐてーぇ!」

看護婦がやってくる。看護婦は薬を点滴の管から流し込んだ。

「佐藤さん。まだ痛いですか。」
「割と大丈夫な・・・、うっやっぱり痛い。」

「おうちの方に連絡を取りたいんですけど、奥様とかお付き添いの方はどなたをお呼びすればいいでしょう?」

言葉に詰まる。
もう、妻からは捨てられた身である。親は既に他界しているし、一人っ子。自分は天涯孤独であることに気がついた。
それでも一応、妻に連絡を取ってもらう。

「奥様ですが、『もうあんな人とは無関係ですから。』っておっしゃってました。困りましたね。」

その日は余り効かない鎮痛剤を投与されながら、痛みと格闘する。こんなことなら彼女と一戦交えなければよかったと深く 深く、日本海溝より深く後悔する。
翌日になり、上司の経理部長が見舞いにやってきた。

「この度は散々なことだったねえ。奥さんには逃げられるし、追い出されたっていうのが正しいか(笑 それと、君の不倫 相手、会社に辞職届を送ってきたよ。」
「何で部長はご存知なんですか。」
「辞職のいきさつが書いてあってね。私のせいで、鈴木課長が奥さんと別れることになってしまいました。本当に悪いことをして反省しております。って書いてあったよ。いつもと同じように誤字脱字だらけでね。」

「・・・・」

「まあ、とにかく会社のことは心配しないでちゃんと養生したまえ。君もこんなことになってしまって本当に大変だと思うが、私達は君の味方だ。とりあえず総務課に寮の手配をしておいたよ。住むところの心配はしなくてもよいよ。」

「・・・・」

「それとだね、君の奥さんに会いに行ったよ。別れるってことを何とか翻意してくれないかって説得に行ったのだが、こっちは不首尾だったなあ。君の奥さんはいつも君が言っていた通りの人だね。取り付くしまもないって言うか。
身の回りのものは寮に送ってもらうってことは了承してもらったよ。『どーせ捨てるもんだから手間が省けて逆に清々します』とさ。ふう。すごい奥さんだな。」

私はその部長の言葉を聞いて涙ぐんだ。こんな部長をだまして会社の金を横領しているのかと思うと、自分自身が情けなく、この世の中から消え入りたい気分だった。

その日は警察官がやってきて取調べがあった。でも、考えていた通りのシナリオを話したらあっさり納得してくれた。

「まあね。タラバガニから抱きしめられればそうなるだろうからね。」

って普通の痴話げんかだと思ったらしく、人の良さそうな警察官はそんな感想を述べたりした。
とりあえず大きな山場は一つクリアした。

入院3日目に経理部長以下5名も花束を持ってお見舞いにやってきた。
ほっとした。こんなことがあって会社に行きにくいと思っていたが杞憂だったかもしれない。

しかし、問題は、毎月100万円ずつ工面しなくてはならないことである。
非常に気が重い。いつまでも入院していられたら極楽だろうに。